『7つの習慣』を読み直していきながら、気づきや感想を記しています。
いよいよ「第1の習慣」を読み進めました。
そこではヴィクトール・フランクルという人が、刺激と反応の間に「選択の自由」があることを発見するに至った体験について紹介されていました。
前回はその体験談については割愛したのですが、今回はその体験について少しまとめ、寄り道したいと思います。
ヴィクトール・フランクルについて
ヴィクトール・フランクルは、前回で取り上げた「刺激と反応の間には選択の自由がある」という人間の本質を支える基本的な原則を発見した。
彼は、オーストリアの精神科医かつ心理学者で、ユダヤ人だった。
そして、彼はもともとは、フロイト学派の伝統を受け継ぐ決定論者だった。
それは、人の性格や人生の在り方は幼少期の経験によって決定されるというものである。
そんな「個人ができることはほとんどない」という意見を支持していた彼に、パラダイム・シフトが起こった体験について書かれている。
ナチスドイツ強制収容所での体験談
『7つの習慣』P103〜を参考に、彼の体験談をまとめてみる。
第二次世界大戦時
ユダヤ人である彼の妹以外の家族は亡くなってしまった
彼自身もナチスドイツの強制収容所で、
拷問を受け、数々の屈辱を味わった
ある日、
彼は裸で小さな独房に入れられた
看守は彼の身体をどうにでもできた
しかし、
彼はどのような目に遭っても、自分を観察者として見ることができた
彼のアイデンティティは傷ついていなかったのだ
収容所の中で、フランクルは自分が講演をしている姿を思い描いた
収容所で得た教訓を人々に話している自分を想像した
知性、感情、道徳観、記憶と想像力を生かすことで、
彼は小さな自由の芽を伸ばした
彼はナチスの看守たちが持っている自由より、大きな自由を手にした
何が起ころうとも、それが自分に与える影響を自分自身の中で選択することができたのだ。
彼は誰もが心が折れそうな過酷な状況の中で、自分で反応を選択し、今使える力を働かせ、尊厳を保つことができるようになったのである。
そして、彼はこの体験からこれまでの決定論を否定し、新しい原則を支持することになった。
「誰にでもそれぞれのアウシュビッツがある」
ここからは、『7つの習慣』から少し脱線する。
NHK「こころの時代」【ヴィクトール・フランクル】第6回

ヴィクトール・フランクルの孫が、彼の言葉を紹介していた。
「誰にでもそれぞれの“アウシュビッツ”があり 簡単には解決できない苦しみがある」
「それは本人にとっては絶望的な状況なんだ」
NHK「こころの時代」【ヴィクトール・フランクル】第6回
もちろんこれは、当事者ではない人間が軽々しく言ってはならないと思うが、当事者であるフランクルの言葉だからこそ受け入れることができる。
つまり、フランクルほどの悲痛な体験をしなければ、パラダイムシフトは起こらないのかといえばそうではないということだ。
何が起ころうとも、それが自分に与える影響を自分自身の中で選択することができたのだ。
どのような状況でも彼が見つけた原則は、当てはめることができる。
そして、日々少しずつでも、「選択の自由」があると、意識することで変わっていくのではないかと思う。
『7つの習慣』では語られなかった「究極の意味」
NHK「こころの時代」【ヴィクトール・フランクル】第5回

『7つの習慣』では省略されていたが、ヴィクトール・フランクルは収容所で数々の奇跡を体験していた。
あと一歩のところで命をとりとめたことが何度もあったのだ。
彼は 人に起こることはすべて「人間を超越した存在」の力に動かされていると感じ
NHK「こころの時代」【ヴィクトール・フランクル】第5回
それを「究極の意味」と名付けました
彼は「究極の意味」を、全人類に共通する価値観であるとしている。
日々生きていると、なんで「こんなことが」「このタイミングで?」と、思うことがある。
それでも、このフランクルの考えを取り入れると、「今、人生は自分に何を求めているのだろう?」と問いかけることができる気がする。
おわりに・これから
ヴィクトール・フランクルはどんな人生にも意味はあるとし、「それでも人生にYESと言う」という名言を残している。
さらに、「ロゴセラピー」と言う心理療法を創り出している。「生きる意味」を見出すことで、心の病を癒すというものだ。
ロゴセラピーにも興味が沸いたので、それについても調べてみるつもりだが、次は『7つの習慣』に戻りたいと思う。
もし今辛いと感じることがあったら、『「夜と霧」ビクトール・フランクルの言葉 』のどれかの言葉が助けになるかもしれません。
▶︎次回へつづく
参考:
スティーブン・R・コヴィー,「完訳 7つの習慣 人格主義の回復(新書サイズ) 」,2023年9月,第二部 第1の習慣 主体的である