『7つの習慣』を読み直していきながら、気づきや感想を記しています。
今回からいよいよ本題に入ります。まずは、第一の習慣「主体的である」について、まとめながら理解してみます。
先日友達に、主体的であるとは、「自分から動くってことでしょう」などと言ってしまったのですが、きっとそんな浅いことではないと思うので読み進めていきます。
パーソナル・ビジョンの原則
人間を人間たらしめているのは、感情でも、気分でもない。思考ですらない。
自分の感情や気分や思考を切り離して考えられることが、人間と動物の決定的な違いである。
この後に他の要素も出てくるが、まず筆者は、人間だけが持つ能力は「自覚」だ、と言っている。
例えばどれだけ怒っていても、怒っている自分を客観視することはできる。そして、次の行動を選ぶことができる。
これから第1の習慣に進むが、ここでは以下のことを心に留めておきたい。
「自覚」という能力を使えば、
- 習慣を身につけることも、断ち切ることもできる
- 自分のパラダイムを客観的に見つめ、それが原則に基づいているか(歪んでいないか)どうか判断できる
パラダイムについてはこちら
社会通念の鏡
現代の社会通念や世論、あるいは周りの人たちが持っているパラダイム、それらはいわば社会通念の鏡である
ここでは、自分自身を社会通念の鏡だけを通して見ることを、遊園地のミラーハウスに入り、歪んだ自分を見るようなものと例えている。
他者についても、相手を客観的に見ているようで、社会通念の鏡を通して見ていることがほとんどで、それはつまり自分自身を相手に投影しているのと同じだと言うのだ。
現代社会で広く受け入れられているパラダイム、「三つの社会的地図」は以下の通り。
DNAが、あなたをつくっている
例)「忘れっぽいのは父親譲りだ」「日本人だから真面目だ」など
育ちや子供時代の体験が、あなたをつくっている
例)「自分の気持ちが言えないのは、親の育て方のせいだ」など
自分を取り巻く環境や誰かが、あなたの今の状態をつくっている
例)「上司のせい」「親のせい」「子供のせい」「配偶者のせい」「国のせい」など…
これら三つの地図はどれも、刺激/反応理論に基づいている。
パブロフの犬の実験で知られるように、特定の刺激に対して特定の反応を示すように条件づけられているというものだ。

社会通念の鏡を通して、自分のことや他人のことを見ていないだろうか。また、それは、本質をそのまま映し出していると言えるだろうか。
刺激と反応の間
ここで、ヴィクトール・フランクルの衝撃的な体験が紹介されているが、これについては次で紹介したい。
フランクルが発見した
は、刺激と反応の間には選択の自由がある
という原則だった。
そして、その「選択の自由」の中に、自覚を含め、人間だけが授かった四つの能力があると言う。

とは、
自分自身を客観的に見つめる能力
現実を超えた状況を頭の中に生み出す能力
心の奥底で善悪を区別し、自分の行動を導く原則を意識し、
自分の考えと行動がその原則と一致しているかどうかを判断する能力
他のさまざまな影響に縛られずに、自覚に基づいて行動する能力
筆者は、動物にはこれらの四つの能力はないと言っている。
四つの能力を使えば、本能や調教とは関係なく自分で新しいプログラムを書くことができる。
刺激と反応の間には、「選択の自由」があると意識するだけでも、これからの行動が変わっていくかもしれない。
「主体性」の定義
主体性とは、自発的に率先して行動することだけを意味するのではない。
人間として、自分の人生の責任を引き受けることも意味する。
ここで、冒頭で述べた自分の「主体的」の解釈が誤っていたことが分かる。だが実際、「主体的」といえば、率先して行動することの方が意識されがちではないだろうか。
は、
英語でレスポンシビリティ(responsibility)と言う。
レスポンス(response=反応)とアビリティ(ability=能力)と言う二つの言葉でできていることがわかるだろう。
印象的だった言葉がある。
主体的(proactive)な人は自分の中に自分の天気を持っている。
(中略)
反応的な人は、社会的な環境にも左右される。彼らは「社会的な天気」も気になってしまうのだ。
雨だから憂鬱だ、相手が不機嫌だから不快だ、給料が安いから不安だ…、これらの感情が生まれることは当たり前である。
ただ、感情に行動が影響されているとしたら? それは、自分の人生の責任を取っていると言えるだろうか。
衝動を抑え、価値観に従って行動する能力こそが主体的な人の本質である。
ここで、エレノア・ルーズベルトの言葉が引用されている。
「あなたの許可なくして、誰もあなたを傷つけることはできない」
筆者は、簡単に受け入れられる考えではないと前置きしつつ、こう言っている。
「傷つけられた」と思っているとき、出来事ではなく、その出来事に対する自分の反応によって傷ついているのだと言っている。
※肉体的や経済的などの直接の被害を除く
ヴィクトール・フランクルによれば、人生には三つの中心となる価値観があると言う。
一つは、「経験」、自分の身に起こることである。
二つ目は「想豫」であり、自分でつくりだすものの価値だ。
そして三つ目は、「姿勢」である。不治の病と言う過酷な現実に直面したときの反応の仕方だ。
主体的な人は、自分の反応を選択し、効果的な人生を営むために行動しているのだ。
次へつづく
ここで、次回へ続く。
ここまでのポイント
- 人間には、刺激と反応の間に「選択の自由」がある
- 主体性とは、自発的に率先して行動することだけではなく、
自分の人生の責任を引き受けることも意味する
雨の日でもご機嫌でいられるよう、主体的に生きていきたいと思う。
▶︎次回へつづく
参考:
スティーブン・R・コヴィー,「完訳 7つの習慣 人格主義の回復(新書サイズ) 」,2023年9月,第二部 第1の習慣 主体的である